『エヴァンゲリオン』 庵野秀明の演出について
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『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年)のテレビ放送から25年近くがたち、3度目の完結の作品として劇場用映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』上映された。
ちなみに、1度目の完結はテレビシリーズの最終話であり、2度目の完結はテレビシリーズとはまたことなるストーリーが描かれた劇場用作品『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH (TRUE)2 / Air / まごころを、君に』(1998年)だと、ぼくは思っている。違う考えの人もいるかもしれない。
3つもラストがあると、それぞれキャラクターの設定やストーリーが多少異なってくる。ぼくが気になるのは、それらの差異ではなく、庵野秀明という演出家がエヴァンゲリオンという作品を通して行ってきた演出方法だ。だからこの文章では、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のストーリーについては触れません。注目したいのは、庵野秀明は何を考え、どのようなアニメーション表現を『エヴァンゲリオン』で行ってきたのかということだ。
彼のアニメーションに対するひとつの考えがうかがえるエピソードが、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のパンフレットに掲載されている。本作で監督をつとめた鶴巻和哉へのインタビュー記事だ。以下抜粋する。
庵野総監督は以前、「部屋に入ってきて座ってコーヒーを旨そうに飲むような日常芝居は、観客も見慣れているから失敗する可能性が高い。成功したとしても自然に見えてスルーされるから避ける」という意味のお話をされていました。
(『シン・エヴァンゲリオン劇場版 劇場用パンフレット』p.71)
テレビシリーズのときからエヴァンゲリオンでは、日常の会話シーンなどで、正面からキャラクターの動きを描くカットはあまりなかった。特異なアングルで身体の一部分を描いたり、人物の後ろ姿、あるいはシルエットだけなど、独特の映像表現を行っていた。
またキャラクターの内面を表現するシーンでは、街の風景や電車の車内、自然の風景、物のアップを多用した。キャラクターの芝居で内面を表現するというよりは、キャラクターも含めた様々なイメージの集合の映像によって表現していった。そしてその表現方法は、その後に作られる多くのアニメーションに影響を及ぼすことになる。
これは、庵野秀明が若いころにアニメーターとして参加した『風の谷のナウシカ』(1984年)の監督である宮崎駿の作品と、大きく異なる表現だと思う。宮崎駿の描くキャラクター達は、内面と行動がほぼ一致している。歩き方ひとつでそのキャラクターの性格を表現し、悩んでいれば悩む芝居をする。宮崎駿は目に見える芝居によって、キャラクターのすべてを表現しようとするのだ。(この詳細については、また改めて掘り下げたい。)
さらに言えば、前回述べたように、宮崎駿の先輩である高畑勲は、スポーツ根性アニメが全盛の時代に、それまであまり試みられてこなかった日常生活を丁寧に描くことを『アルプスの少女ハイジ』(1974年)で行った。その表現は見事に成功し、当時『ハイジ』を見ていた人が、アルプスの生活にあこがれたという話や文章をよく目にする。
ぼくは14歳のときに、テレビシリーズの『新世紀エヴァンゲリオン』を見た。描かれた 主人公 碇シンジの葛藤を、まるで自分のことが描かれているように思い感情移入をした。多くのひとがそのように感じたと思う。『ハイジ』から20年近く経ち、日常の表現方法は変わった。
では、『新世紀エヴァンゲリオン』の放送から25年が経ったいま、アニメーション表現はどうなっているだろう。日常というものをどのように表現しているだろう。
すこし話を急ぎすぎたかもしれない。もっと触れなければならない作品がある気がする。高畑勲も『アルプスの少女ハイジ』以後、アニメーションに対する考えを変化させていった。
そして、アニメーションの表現の歴史を、アニメの中だけで考えるのではなく、他の表現も参照したい。芝居といえばやっぱり演劇だ。演劇論を参照することで、また違った角度からアニメーションの芝居を考えられると思う。そして日常を描いた作品といえば、小津安二郎の作品。以前見たときは退屈な作品としか思えなかったけど、日常を描くことについて再考するために、もう一度見返そう。(2021.4.30)
「post(その後)」を考えるために
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数年前、ポスト宮崎駿、ポスト高畑勲という見出しをテレビや雑誌でよく目にした。でもポスト(post)、「その後」を考えるには、「そのもの」についてまず知らなければならないと思う。
高畑勲に焦点をあてるなら、彼の監督したアニメーションは、それまでとくらべて何が新しかったのだろう。それはその後のアニメーションに、どんな影響を与えたのだろう。
何冊かの本や、2019年に開催された高畑勲展を見て、なんとなく表面的なことは分かった気がした。誇張しないで、日常の動作を丁寧に描く自然主義的な表現と言われる高畑勲の演出。でも、それが当たり前の表現となったアニメーションを見て育ったぼくには、頭でわかっても、その新鮮さを感じることができなかった。
同じように、国木田独歩の『武蔵野』(1898年)を初めて読んだとき、風景の描写ばかりで退屈に感じてしまった。口語体で自然の風景を描写することが、いかに大変なことで、その表現に至るまでにどれだけ多くの文学者の苦闘があったかが分からなかった。
だから、もっと自分の実感として感じたいと思った。高畑勲が目指したものを。
それには、彼のつくった作品や、それ以前に作られたものを見るのが一番だと思う。彼が東映動画時代に監督した『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)と、それ以前の東映動画作品。彼が監督したテレビアニメ『アルプスの少女ハイジ』(1974年)とそれ以前のテレビアニメ作品など。
高畑勲だけではない。宮崎駿や富野由悠季、押井守などの作品を、あらためて見て、考えたいと思う。彼らはどんなことを考え、アニメーションをつくってきたのか。それは、その後の作品にどのような影響を与えているのか。
「いまさら何十年前の作品を?」と思ったり、「すでに語りつくされた作品を?」と思う人もいるかもしれない。けど、宣伝の言葉で終わりにしないために、「ポスト(その後)」を考えるには、必要なことだと思う。そしてそれが、アニメーションがよりゆたかな表現になっていくことにつながっていくと思う。
この日記は、ぼくが見たアニメーションの感想や、見て考えたことなどを書いていきます。(2020.12.27)